~田子にんにくはどのようにして作られてきたのか~
田子町は、戦後から1950年代までは、林業や馬産でしのいでおり、過酷な土地柄であった。もちろん、米もろくにとれないため、ヒエやアワなどの構穀や炭焼きなど生計をたてていた。
しかし、1960年代に入ると石油の時代に入り、木炭需要が激減。りんごを作るか、出稼ぎに出るしかなくなった。
当時県青協に入っていた、野ノ上武次氏(故人) が情報を得て、にんにくの導入に至った。
(故)西村金二氏
中村萬氏
初代にんにく生産部会部会長・中村萬氏
「作れば売れるという時代で、反収80、90万はザラにあった。20代で家を建てたものも多かった」
昔から田子町は畜産が盛んで、良質な堆肥の生産がなされていた。
当時農協内での規格を中心的にまとめた川村武司氏(左)と元にんにく生産部会長・田沼誠一氏(右)。
川村武司氏
田沼誠一氏
これによって、やめてしまう農家が急増したが、選果規格を厳しく方針を固めることでにんにくバブル期への足がかりを築いた。
中国産急増により価格急落の危機を迎えるが、大玉品種を導入することなどにより、中国産との差別化をはかることを可能とした。
処理方法
※処理前は農家で予備乾燥を行う。
平成13年農業生産総合対策事業(農林水産業)
イモグサレセンチュウ対策のための処理
平成14年3月完成
当時の青年部部長・(故)西村金二氏
「わしらもやってみようということになって、12、3人で親を説得して10万円集めて1万個の種を買った。今、思うと冒険だね。」